旅と散歩の話

雑記系のブログ。旅行と地域ネタを中心に、心理学やサブカルチャーに関する話を書いています。

「マナー」と「監視」の話

 先日、祖父の葬儀があった。身内の葬儀は20年ぶりで、社会人になってから葬儀の場に出るのは初めて。マナーをきちんと守るように気を付けたが、杞憂で終わった。
 それは、親族には良くも悪くも大雑把な人間が多いからである。

 例えばハンカチであれば、葬儀の時は白か黒を用いるのがマナーであるが、大慌てで準備をしたため完全に失念しており、結局ベージュのハンカチを持って行った。
 しかし、それで困ることは無かった。両親や弟に余りが無いか聞いたが、そのままで良いと言われたからである。また、香典も用意しておいたが、家族だからという理由で断られた。

 さて、葬儀が終わった翌朝、自宅へ帰る準備をしている時に、たまたまテレビを付けてみると「結婚式のマナー」というものが紹介されていた。そこで取り上げられていたものは「室内ではフラップ(礼服の上着のポケットのフタ)はしまう」「ご祝儀袋に入れるお札は新札」といったものであった。

 ちなみに、先述した香典に入れたお金だが、前日の夕方にATMから引き出したものである。引き出したお金はそのまま折り畳むタイプの財布にしまい、夜に香典袋を包むときに取り出した。これを「新札」と呼ぶかどうかは分からない。葬儀で新札はNGとされているが、一度折り畳んでいるから「新札」にはならないだろうと判断した。
 また、フラップも礼服を着ている間はずっと出した状態であった。葬儀のことで頭がいっぱいでそんな所まで気にする余裕がなかったからである。

 それにしても、マナーとは一体何のためのものなのだろうか?冠婚葬祭に限らず、就職活動やビジネス、公共交通機関など様々な所にマナーは存在する。そして、どのような場であれ「最低限守るべきマナー」というものは確かにある。
 しかし、あまりにもマナーに囚われ過ぎて本来の意味を忘れてしまっては本末転倒にならないだろうか?

 例えば、結婚式なら新郎新婦を「祝う」場であるし、葬儀であれば故人を「偲ぶ」場である。招待客や弔問客を「監視する」場ではない。

 自分としては「相手や周囲に失礼のない様にする」程度で良いと思っている。また、周囲に対して過度なマナーの強制はしないようにしている。そういった態度は「非寛容」に見えるからだ。

 「過剰な監視」は「非寛容な社会」を生み出す原因に成り兼ねない。そして、そのような世の中を自分は望んでいない。

ではまた(´・ω・`)ノシ