「論理トレーニング」が「校正トレーニング」になってしまったという話(前編)
「論理トレーニング(新版)」という本がある。
内容は主に論理的な思考方法を解説したもので、主張の組み立て方や推論の方法が紹介されている。また、質問の仕方や論文の書き方なども含まれており、参考になる箇所は多い。
しかし、この本には致命的な欠点がある。
それは、「説明や解説が読みづらい」というものだ。
特に目立ったのは「指示語や接続語の乱用」である。「これ」や「それ」が幾つも出てくる文もあれば、接続語が二つ並べて使われた文(「それゆえまた、~」「しかし、ときに、まさにこの~」など)もあり、読みづらい文がかなり多い。
また、「ひらがなの多用」や「回りくどい表現」(~するということは~するということにほかならない、しかしいまわれわれにとってだいじなのは~、など)も目立ち、読みづらさに拍車をかけている。
どのような本でも、文章が拙いと感じる箇所は多かれ少なかれ存在する。しかし、「論理トレーニング」では「例題」や「問題」だけでなく、「説明」や「解答例」まで含めた、大半のページに渡って見られたのである。
具体例
例えば下記のような文である。固い言葉が並んだ「内容」だが、そこには触れずに、「形」だけ取り上げる。
現在の金融引き締め政策は、なるほど海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びから貿易収支の好転をもたらしたが、しかし他方で、中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機などを招き、そのため産業界からは引締め緩和の要望が高まっている(P50 例題1の解答を引用)*1
この文は「例文を読み、接続関係を明示せよ」という例題に対する解答文である。「なるほど」「しかし他方で」「そのため」に下線が引かれ、解答の接続詞として示されている。だが、この文には疑問に思う箇所がいくつかある。
まず感じたのは、「一文で言い切る必要はあるのだろうか?」という点である。上記の解答文をWordの「文字数カウント」で調べてみると111文字となる。何文字を超えると「長い」と感じるかは人によって変わるが、自分の感覚としては100文字を超えると長いと感じる。*2
1つの文にこれだけの文字数となると、内容も複雑になりやすい。よほど書きなれた人でないと、要点が掴みにくい「分かりにくい文章」となってしまうだろう。
それよりも、内容を整理して余計な表現を削り、一文を短くするべきではないだろうか?それが「分かりやすい文章」への近道であり「論理トレーニング」の目指すべき方向だと思う。
続いて細部を見ていくことにする。
まず「なるほど」であるが、これは接続詞だろうか?この言葉は接続詞よりも、相づちを打つように感じられ、「話し言葉」に近いと思う。この例文(解答文)が口頭での討論を前提にしたものなら、分からなくはない。しかし、そういった但し書きはどこにも無いため、論文などの書面の文章を想定したものと考えられる。そうなると、「話し言葉」の感覚が強い「なるほど」は不要と判断するのが妥当だと思う。
さらに、「貿易収支の好転をもたらしたが、」の「が」も不適切に感じる。なぜなら、例題のあるページ(P44)の本文に『論理的な文章を書くときは「……が」というつなぎ方は避けた方がよい』とあるからだ。ここの「が、」は「だが」や「しかし」と同じ「転換」の働きをするものである。
なので、「~をもたらしたが、しかし他方で~」と繋いでは「転換」を意味する言葉が続くことになる。*3
同じことを繰り返すが、この例文(解答文)が口頭での討論を前提にしたものなら、分からなくはない。しかし、書き言葉と話し言葉は別である。「貿易収支をもたらした。」で文を区切り、「しかし~」と続けるべきだろう。元の文章の形にこだわる必要は無いと思う。
以上のことを踏まえ、自分が校正したものを以下に示す。と言っても、文を三つに分けただけである。自分は論理学や日本語の専門家ではないのでこれが最適とは思っていないが、それでも上記の解答文よりは読みやすくなったと思う。
現在の金融引き締め政策は、海外諸国の好況に支えられた輸出の伸びから貿易収支の好転をもたらしている。だが、中小企業倒産の異常な増加や株式市場の危機なども招いている。そのため、産業界からは引締め緩和の要望が高まっている。
誰を対象としているのか?
そもそも、この本はどういった読者層を対象にしているのだろうか?
「はじめに」を読んでみると「本書は教科書である」と明記されている。
さらに、巻末にある『「哲学教科書シリーズ」発刊にあたって』では「全く予備知識のない高等学校卒業生に理解できることを目標」「使用している教科書だけで(中略)理解が自己完結」とも書かれている。*4
つまり、この本は「初学者向けの教科書」として書かれているのだ。
しかし、この本がそれに相応しいかと考えると、そうは思わない。理由は先述した通り「説明や解説が読みづらい」からである。
さらに、哲学や論理学の専門用語(「虚偽論」「蓋然的」「ペシミズム」など)が何の解説もなく使われてる箇所もあり、想定されている読者である「初学者」を無視してるように感じられた。
読み進む度に「この本は校正をしたのだろうか?」と何度も疑ってしまった。粗探しは自分の趣味ではないが、ここまで酷い内容だと自然にそうなってしまう。むしろ、自分の「校正トレーニング」として活用した方が良いと考えるようになった。
こうして「論理トレーニング」は「校正トレーニング」となってしまったのである。今回の記事だけでこの件を終わらせようと思っていたが、具体例にしたい箇所が想像以上に多かったので、次回に何点か取り上げようと思う。
ではまた(´・ω・`)ノシ